【書評】志賀直哉『小僧の神様』
こんにちは。
今日から、私が読んだ本の書評を書いていこうと思います。
まず、一冊目はこれです。
その後、内村鑑三の夏季講談会に出席して以来8年間その教えに接しました。
そして、今回ご紹介する「小僧の神様」
というのは、直哉が37歳の時、『白樺』に発表されました。
では、数ある文学者の中で、志賀直哉はどのような価値観のもとで書いたのでしょうか。
明治時代初期、まだ古いものと新しいものが混ざり合っているような時期、どのような文学あるべきか、まだ分からない時期には、江戸末期の文芸の流れを受け継ぐもの(儀作文学)、西欧の社会や政治、思想などを紹介した翻訳小説、また、自由民権運動を背景に政治の理想を述べた政治小説などが多く刊行されました。
その後、古典をまねて、かつてあった日本のありようを追ったりする(擬古典主義)ものもあらわれていましたが、それに反してかつてあった決まりや倫理を否定し、内面の感情を重んじ理想や恋愛に己を解放せしめんとした(浪漫主義)、また、社会に存在する差別や理不尽な階級や制度などに焦点をあてた(自然主義)ものなどが生まれました。
しかし、その自然主義の問題点としては、あまりに差別や制度、境遇に対する偏見や意識などが個人的なもので客観的事実などが薄く信憑性が疑われたことから、その自然主義を批判する形で、こうとうは、余裕派、耽美派、白樺派が生まれました。
それが白樺派です。
さて、ではさっそく内容へo(^_^)o
タイトルにもある、『小僧の神様』。
主人公は、秤屋で働くちびっ子。
秤屋の親分や働いてる者が、神田のある寿司屋が美味い、という話で盛り上がっている。
そこで、どんなに美味いだろうか、
想像していた小僧は、親分にお使いを頼まれた帰りに寿司屋に寄ってみました。ですが、とても手に出せる値段ではなく、すごすごと帰ります。
それを見かねた、客が、後日秤屋へ出向き、秤を買い、それを家まで小僧に運んでもらえないかと親分に頼み、、
運びおえた後、お客は小僧を寿司屋につれていきおごってあげます。
ですが名も名乗らず、お金だけ支払いさっさと去ってしまいました。
そうして、びっくりしたまま、小僧はお寿司にありつきます。
そして小僧は後日、あのお客さんは稲荷の神様だったんじゃないか?と思い付きます。小僧の祖母は稲荷信仰に深かったため、小僧もしんじていたのです。
しかし、どうにかして、あの人のもとへ行きたいと思い、秤を買ったときに書かれたあのお客の住所を頼りに、
家を探したのですが、、
そこにあったのは、、、、。
ラストが衝撃的で、もう何度も読みたくなるストーリーです。
そしてなにより寿司を食べる小僧がめにうかんで思わずゴクリとなります。
小僧は一体何を見たのか?
気になる方はぜひ読んでみて下さいo(^_^)o